境界を越える幸せ

21世紀社会デザイン研究科 立花ゼミ 平和教育班 ハンドルネーム:中岡ともの のブログ
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アウシュビッツ 番外編

アウシュビッツ最終日の夕食時、実は数名の参加者がいませんでした。

何をしていたかというと、
現地の人にオフィシエンチムを案内してもらっていたのです!
オフィシエンチムはポーランドのアウシュビッツ収容所のある地名です。
戦争中は、ドイツ軍が地域一帯をアウシュビッツと名前が変えてしまい、戦後ポーランド名に戻りました。
だから、アウシュビッツ収容所に見学に行く場合、クラクフから電車で移動する目的地は
オフィシエンチム駅になります。

オフィシエンチムは、アウシュビッツだけじゃないのよ!
私たちが昔から暮していて、普通の生活がある。
それを知ってほしい、

そういう申し出であったと聞いています。

いわれてみれば、
ずっとオフィシエンチムに先祖代々住んでいたのに、
ナチスがやってきて、追い出され、
5年もしないうちに帰ってきてみれば、
自分たちの土地でむごいことをやっていた
けれども、そこには自分のルーツがある、
だから、そこに住み続ける

たしかにビルケナウの近くにも多くの住宅がありました。

なにはともあれ、夕食時にそれぞれが体験を語っているときに、
数名はオフィシエンチムの夜の街にでかけ、
翌日は、教会のミサにも参加し、その人たちの家族とも会い、
おみやげもいただいて
オフィシエンチムという街の別の一面と、
懐の深さを体験してきたようです。

もともとツアーの趣旨としては、
ポーランド人がアウシュビッツをどう考えるか、
を知ることでもあったので、
それに参加した人は、非常に幸運だったと思います。

私もおこぼれで、「ポーランドの一番少額のコイン」とヨハネ・パウロ2世のバッジをいただきました。
前回きたときにヨハネ・パウロ2世がポーランドにいらした、ということを話したのと、
少額のコインは幸運をもたらすからだそうです。いまも財布にいれています。
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アウシュビッツ2日目 4 みんなが感じたこと

雨の中のツアー最終日、
みなが顔をあわせるのは最後になったその日の夕食時に、
明日の連絡から、先生のお話、感想などをわかちあう場となりました。

あまりに濃い2日間だったので、
言葉にならないのではないか、とも思っていたのですが、
大半の参加者は感想を口にしていました。

いろいろみて混乱している、という感想もありました。
口にうまくだせず涙だけがこぼれている子もいました。
あまりに知りすぎていたせいかショックを受けない自分がショックだった、
という先生がショックを受けた発言もありました。
(9月初旬の週刊文春の先生の読書日記に掲載)

わたしは、「なんかよくわからないけれど、ぞわっとした」という感想が一番印象的でした。
自分が前回、2度と来たくないと思ったのはきっとその感覚をもったからだと思います。
でも、それが熟成するかのように深くなって、今回、数年を経て再訪するきっかけになったのです。
その感覚を忘れないでほしいと思っています。

ショックなものをみたあとに語りたい、
語ることで癒されたい、
自分の思いを整理したい

アウシュビッツの収容者もそうだったそうです。
ボランティアで一般の家庭に招かれた解放直後の囚人は、
とにかくだされたものを黙々と食べまくり、
そして、ある瞬間から堰をきったかのように
自分の体験を話しだしたそうです。

自分が見てきたことを話さずにはいられない、
話すことこそが生き残った自分の使命である、かのように、
そこに自分が生きている実感を見出したいかのように

今回宿泊したキリスト教系の施設もそのような趣旨で建てられたそうです。
アウシュビッツを訪れた人が集い、祈り、語る場として
フロントには、ポーランド出身の前教皇・ヨハネパウロ2世の写真や本が
並んでいました。

そういえば、現教皇はドイツ人のベネディクト13世ですが、
数年前ビルケナウを訪れたとき、大きな虹がでたそうです。

思い起こせば、私が最初にアウシュビッツにきたとき、
ヨハネ・パウロ2世がクラカウに滞在中でした。
窓から教皇が顔をだされる、ということでしばらく待っていましたが、
体調がすぐれないとかで拝見できませんでした。

またアウシュビッツを訪れることになったのも、
見えざる縁に導かれた何かの宿命だったのでしょうか。。。
そう思わざるを得ません。

*教皇ベネディクト13世のポーランド訪問は2006年5月末
http://www.afpbb.com/article/life-culture/religion/2062486/591078

アウシュビッツ 2日目 3 記憶の刻み方

第1収容所では、消化不良の立花先生の興味にあわせて見学をしました。

とくに各国の展示は、通常はツアーで案内しない場所で
ガイドのモニカさんもあまり入ったことはないといっていました。

けれども、ポーランドやソ連の展示館を、ポーランド人のモニカさんと回れたのはいろいろ話が聞けてよかったと思います。

ポーランドって本当に大変な国です。
しょっちゅう各国から侵略されて、なくなって、でもまた復活して。
だからとってもたくましい民族なのかもしれません。

正直な話、アウシュビッツではあまり誰かを離れないようにしていました。
理由は・・・1人で展示室にいたくないから・・・
絞首刑になっている写真や、死体の山の写真と向き合うには正直、精神的につらかったです。
最近あったつらい経験と重ねあわせてしまうのもあるかもしれません。

その中で心に残っている写真があります。
雪の上でバラックの前で息絶えている黒い亡骸の写真。

アウシュビッツが解放されたのは雪の日だったそうです。

おそらくはの想像ですが、、、
アウシュビッツ第一の解放時の映画は収容者が鍵が開くのをいまかいまかと待っている喜びに満ちた姿が描かれますが、(プロパガンダかもしれませんが・・・)
殺人工場と呼ばれたビルケナウは、栄養状態も悪いし、ドイツ兵が逃げ、死の行進にも連行されず現地に残された人は体も衰弱していたはずなので、相当の死者がいたと思います。

最初に解放されたときは雪が積もっていて、死者もぽつぽつしか見えなかったのが、雪がとけるにしたがって、だんだんあらわになる亡骸の山。。。当然水分をふくんでいるので、死臭や腐敗も進んでいる

それが、映画「夜と霧」にでてくるブルドーザーで処理される死体の山につながるのではないかと思うと、想像を絶します・・・

外は雨になっていました。
ビルケナウが10年間、曇り空の重苦しい雰囲気で私の記憶に残っていたように、
この写真は、雨が降るくらい夕方の空と薄暗い展示室のイメージとあわさって、
私の記憶にまた残っていくのでしょう。

アウシュビッツ2日目 2 それぞれのペース

ビルケナウを見学した時点で、ひとまずすべてのものはみたことになります。
しかし、2日目の午後は予備として自由時間にしていました。

スモーレンさんの体調の塩梅で、一日目にお話が聞けないかもしれない、という危惧があったためでした。
*しかし、あとで中谷さんから年齢を聞いてびっくりしたぐらい、とてもお元気でそんな心配は無用、3時間も私たちにお話をしてくれました。

前日中谷さんに2日前の午後はどうしたらいいか相談したところ、
自分なりに過ごすのがいい、というようなアドバイスをいただきました。

確かにツアーでは、ペースが違ってじっくりみたい人と、他のものがみたい人も一緒に回らなくてはいけません。自分のペースでもう一度見返すのが一番の消化剤なのかも。

というわけで、伝統的なポーランド料理(シラク1元大統領も訪れたことがあるとのこと)の食事のあとに、いまは建物だけが残っているという第3収容所のモロビッツをバスから見学。
そのあと、第1収容所、第2収容所の順にバスを停車。各自が回りたいところで降りて自由に回る、ということに。

その時点で雨が降っていましたが、第2収容所を希望した若者が2名。残りは第1収容所へ。
とくにどちらの希望もなかった私は立花先生とガイドさんにくっついて移動することに。

立花先生がまっさきに向かったのは、ガス室の白い模型。
ガス室に人形が折り重なったり、焼却炉に亡骸が運ばれる様子などが、かなりリアルに再現されています。
それをみながら、先生は堰が切れたかのようにガイドさんを質問攻めに。

確かに、第2収容所のガス室の跡をみて、「あの展示の仕方では構造がわからない!」とぶつぶついっていました。。。

先生は、第2収容所の風景と、模型のつくりとガイドさんの説明、それまで自分が読んできた本を重ねあわせて、みてきたことを脳のなかで組み立てているようでした。それも、かなり徹底的に追究するように。

他にも先生と回って話をしていると、なにかをみるたびに、どこかで読んだ本や、それまで別の視点から見てきたものが、カシャカシャと結び付けられて、どんどんアウシュビッツや当時ヨーロッパで起きたことが立体的になってきます。

どうやら、一番消化不良を起こしていたのは先生だったようです。

■けど、ちょっと先生に反論

ちなみに、私の個人的な意見では、ビルケナウは広大なお墓なのだと思います。
詳しい説明は第一収容所に任せて、そこに何があったのかの説明は立て札だけで十分だと思うのです。
だから、ビルケナウの展示の仕方が悪い、というわけではないと思います。

さらにいえばまったくの私見ですが、

・ビルケナウは理屈抜きで感情に訴える場所、
・第一収容所跡は事実やドキュメントで訴える場所、

そして、どちらでより大きな印象を受けるかは個々人で違うと感じています。

アウシュビッツ 2日目 ビルケナウ

そして2日目。

思い返せば、あまりに重い1日目でした。
第一収容所、スモーレン元館長のお話、交流センター、そして最後に公式ガイドの中谷さん。

けれども、最後の中谷さんのお話が、それまで見てきたものに対する混乱した思いをとりいれるのにとても助けてくれて気がします。

消化不良になった胃に、日本人にあうやさしく消化剤をいれて、体に吸収する手助けをしてくれたような感じです。

けれども、まだまだ昨日感じたすっきりしない思いは各自が抱えています。

そんな状態で、第2収容所ビルケナウへ。

10年前に来た時は、クラクフからタクシーで連れと2人で1日チャーターして(200ズロチぐらい=7000円ぐらい)2つの収容所跡を回りました。
しかし、私にとって、アウシュビッツに行くとは、「第一収容所に行く」、だったため、ビルケナウの存在はまったく認識外でした。

しかし、そんな私にもタクシーは、きちんと第2収容所を案内してくれました。
アウシュビッツに来るからにはここに来るのが当然のように。

そして、あまりの広さに、呆然としました。
バラックは1列だけ残り、その後ろには煙突と柱のあとだけが残っています。
それがさらに、バラックが地平線の果てまで延々と続く錯覚を起こさせます。
線路の端まで歩きましたが、それ以上は先に続く気力がもちませんでした。
帰国後、線路の奥の林の中にはまだガス室の跡や施設があることを知りました。

けれども、「もうあんな思いは一回で十分。もう行きたくない」と思いました。
母親はそのことを覚えていたので、私がまたアウシュビッツに行くといったときは相当びっくりしていました。

そして、10年ぶりのビルケナウは、かわらずなんともいえない広さでした。

けれども、10年前より緑が多く晴れていたかもしれません。
私の思い出のなかのアウシュビッツはどんよりとした曇り空でした。
今回はみんなといて、気が落ち着いているからでしょうか。

しかし、こんなおだやかな場所で、
ベルトコンベアーにのっているかのようにシステム的に、
多くのユダヤ人が列車から、選別、そしてガス室へ送られたのです。

■その日の立花先生

この日、一番奥まで歩いた時点で、立花先生の万歩計は12000歩でした。
ビルケナウまでの移動はすべてバスだったにも関わらず!
ちなみにその歩数は、確かベルリンを一日歩いたときに記録したのと同じだった気がします。







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